「写真的にモノや風景をみてしまう」「五感と社会につながりってあるの~?」について

なんか書きたくなって無理やり頭をひねり、最近気になっていることと自分の経験や思ったことを結び付けようと思いました。正直待機しなければならない時間が多く、さらには出費も抑えないといけない状況であるので何もできないんですね。ここでいう「何も」とは、外出して料理を食べることとゲームや漫画を買うことです。何ができるのかというと、PCと残してある本を読み返すことです。悶々としたフラストレーションを書くことで慰めようかなと、自分の体が思ったのでしょう。なので、書きたくなったという表現を最初にし、これから書きます。

 

写真を撮るときは何か構図がありますよね。Windows10を開いたら最初にきれいな風景が現れます。プロがとっているんでしょうね。奇麗だなと思いますし、何もしなくてもきれいな風景が見られるのでうれしいです。構図について何かを知っているわけではないです。ただ、何を見せたいか、という意図はどんな写真にも少なからずあるはずです。友人同士で撮った写真でもこの何を見せたいかという意図は存在するでしょう。プロではなくとも、たくさんの人に見てもらいたいと考えて撮られた写真なら先にあげた意図以外にも技術的なものが入り込んでいるでしょう。意識するしないに限らず写真を撮るうえでは無視できないものだと思います。たぶん、ネット上の些細な写真を100枚とか1000枚とか分析したらなにかしらの共通性が出てくるのでは?と思いますし、誰かがすでにやっているかもしれません。

で、自分の個人的なことについて書きます。最近風景を見るにしても写真的にしか見れなくなってるんじゃねえかって思い始めてきたんです。ネットで写真見過ぎて、今までどう風景を見てきたか忘れてしまったというか。写真って全体の一部を静的に切り取ったものじゃないですか。一番きれいな部分をどこか見極めて、そこを切り取って見せてくれる。視覚が重要視される。最近なんか、例えば建物を見るときに、全体性を把握できなくなってきたんですよね。自分の言う全体性っていうのは、建物の全景のことではなくて、建物が立っているその土地のことだったり、今同じ時間にそこを訪れている人たちのことだったり。前はこんなことに思いをはせて風景だったり建物を見れてたんですよね。それができなくなっている。ただただ視覚のみで見ることしかできない。ほんと最近のことですけどね。

もう少し抽象的に書いていくと、視覚的にしか物事をとらえなくなってる。頭だったり、ほかの感覚を使うことができなくなってきてるんじゃないかって思い始めてきたんです。さっき写真を例に挙げたけど、もしかしたら写真の見過ぎのせいじゃないかもしれない。ひきこもりがちになってきてるのが原因か?「写真的にしかみれない」という比喩は妥当にしても、原因が即写真ではないね。社会性がなくなってきてるからじゃないか?今視覚ばっかり使う生活してるので、ほかの感覚が鈍くなってるだけかもしれん。だったら仕事初めて社会性を回復させたら、戻るかもしれませんね。

 

ここまで書いて、五感と社会についてどう繋がりがあるのか、疑問が出てきたね。今回の文章はなんだか二転三転してますね。別に結末まで考えて書いてるわけではないので、いいんですが、文章を書き始めたら文章を終わらせないといけないということなので、これについては困ってます

五感は社会の影響を受けるのかどうか何て自分にはわかりませんが、感じた後の認識の部分は大変社会的なものだとは思います。判断だったりね。そもそも絵画を見るという視覚的な感覚と認識は社会的なものじゃないかって考えてるんですがね。パースって学習しないとわかんないじゃないですか。2次元の紙にこれは3次元として見てねという約束事が存在すると思ってます。この約束事が社会的なもので、それを学習した人間は視覚の使い方を変化させると思ってるんですね。なので、視覚という感覚と認識、社会は影響を与えてると思ってます。多分もっと詳しく考えてる人いるんじゃないか?知りたいね。そもそも認識という言葉の使い方が正しいかわからん。認知のほうがいいのか?

 

で、自分の問題です。今私は視覚ばっかり使った生活をしているので、ものを見る力が衰えている。視覚にしか頼らない見かたしかできていない。他の感覚を取り戻すためには、社会復帰が望まれるということなんでしょうか。正しいか正しくないかは置いといて、自分の疑問に自分で答えが出せたのでとっても満足しました。あと、フラストレーションの解消にもなったのでよかったです。文章が長くなったので、見直すのがめんどくさくなりました。