「気が乗らねえ~」「配信に救われていたのではないか」について

早速なんですが無職です。母親も亡くなりました。時系列的には7月に無職になり8月に母親が亡くなりました。兄も一人暮らしを9月から開始しているので、実家に1人でいます。同じ敷地に祖父母の家が建っているので、食事とかはそこでしています。

もともと転職するために資格とって、仕事辞めてから職探ししようと思ってました。よし仕事辞めた!!兄の引っ越し手続等終わり!さあ仕事探しだ!というときに母親が亡くなったんですね。

 

ぶっちゃけてしまうと母親に対しては特に感慨もなく、手続終わらせました。家族に対して愛情が薄い。

もともと小学生の時に両親が離婚して、それと同時期に母親が鬱になったので父親や母親的なものが自分の中で、今になるまで内面化されていないんですね。当時から両親のことは嫌いでしたので、鬱になったところでどうかと言われれば、身近な大人が機能していない不都合を被ったくらいで、愛情をもっと注いでもらいたかったとは思いませんでしたし、積極的に看病したいとも正直なところ思っていませんでした。対外的には家族愛大事ですみたいに振舞わなければいけないですが。

もしかしたら、母親が亡くなったという取り返しのつかない場面に直面して、言い訳的に「いや、もともとどうとも思ってませんでしたよ」と、言い訳的に過去の自分を改変し自分の責任を逃れているだけかもしれません。

ただ、母親が亡くなってよかったこともあります。看病しなくてもよくなった。これはまあ、亡くなってなくても自分は転職して実家を離れようとしてましたけど。あと、兄の体調がよくなった。兄も鬱なんですが、原因が母親だったので、原因が無くなったらよくなるのは当然かなとも思います。兄は火葬場にもいかなかったので、よっぽど嫌いだったのでしょう。遺品もばんばん捨ててましたし。介護殺人とか起きるの当然よね、くらいに僕も一時期追い詰められてた時もあったので、死んだことによりすっきり爽快の方が強いです。これはどれだけ人間の死に対して喜べるかレースですか?こうして不特定多数の人間に向かってこんなこと言う人間も少ないでしょう。物語の中で、「正直解放された気分です」とかはよく聞きますが。ドキュメンタリーでも目にするか。母親は人を精神的に縛り付け、上から目線で非難するところがあったので、私と兄はまさに解放された気分なんだと思います。

 

今現在転職活動中なんですが、時間があるので暇を持て余している最中です。そんな中で考えていたことがあります。暇だといろんな事考えちゃいますよね。

自分はまあ、両親が機能していない人生を歩んできたので、無意識のうちに母親的なものと父親的なものを求めていたんですね。今もかな?中学校まではそれが欠落していたので、おそらく周りに比べて子供っぽい性格だったと思います。振る舞いやマナーはできてましたが、思考的に。で、自分の中ですごい変化したなと思った転機があったんですね。信じられないと思いますが、Ustreamの配信なんですよ。これを見始めたのが高校の時。結構な年上の配信者がゲームとか雑談とかの生配信をする中で、他の配信者との交流や視聴者のチャットとのコミュニケーションを観る中でいろいろな考えに触れられたんですね。いろいろな考えに触れられたというのが重要だったかもしれません。いや、高校生活ではがらりと環境が変わったのでその影響も、人格形成に重要な要因になったこともあると思いますが。

しかし、自分の中ですごく影響を受けたなと自覚するのは高校進学より配信の方が大きいです。特に「親孝行」とうことに関して。その当時から両親を嫌っていましたが、この考えは世間的には間違った考えであり、親は敬わなければならないのだとう葛藤を抱いて苦しんでいました。しかし、配信の中で別に親とかどうでもよくない?という、毒親を抱える配信者の意見に触れ、解放された気分になりました。葛藤を抱えて生きるというのは苦しくてね、身体にも影響を与えますわ。それがだいぶ軽減されたんです。とてもいい気持でした。それからでしたね、実際の高校のクラスメイトともなんとなく仲良く付き合えるようになったのは。大学に進学してからも普通の人みたいに、友人ができました。人づきあいが苦しくない!ちょうどいい距離感というのを身に着けました。ひとつ葛藤が心にあるだけで、ほかのことを考える思考力や周囲を見通す力も鈍ってたんですかね。

まあ、全部が即うまくいったように書いてますが、失敗もいろいろ踏んで、徐々に上手になった感じです。家の問題が表出するたびに苦しんで後戻りすることもありました。今も他人と比べれば人づきあいは下手の方だと思っています。

配信に救われた~というと「そんな馬鹿なことあるかい」と突っ込まれるかもしれませんが、ここで重要なのは僕がどう思っているかであり、それを精神的拠り所としている自分が重要なのです。自分にとっての救いはどこに落ちているかわかりませんね。僕はとっても運がいい。これは自慢です。

 

 

「忌録」読みました、について

「忌録」っていう小説を読みました。面白かったです。電子書籍でしか売ってない、というか、アマチュアの人なんですかね?そのあたりの情報を掘り下げていないので不明です。安かったです。299円。

 

実際にあったという体で書かれたホラー小説です。この手のホラー小説は「残穢」が有名ですかね。「忌録」の方は一部を除いて雑誌記者の資料感が強いです。電子書籍を活かしたレイアウトで、カラー写真を貼りつけたりPCメールの引用を使っています。最後の話はブログをそのまま載せてます。

映画で言ったら「ノロイ」ですかね。モキュメンタリーの。テレビ番組で言ったら「放送禁止」。

 

この小説普通に通して読んでも面白かったんですけど、楽しもうと思ったら、もっと楽しめるんでしょうね。書かれているその先であったり、書かれている情報が正しいか、ホントのところ真実は何だったのかという謎解きです。

正直僕はやりこみというものを進んでやらないため、ただ一回読んだだけです。謎解きしている人たちはたくさんいるようで、toggetterでまとまってます。

 

個人的にだるいんですよね。謎解き。書かれている物語で満足するんです。だるいというのが一番の理由で、あとは本当にそれが問題として存在するのかという疑問がわくのです。作者の意図を超えて想像を膨らませてないか?ということです。もちろん、作品の枠を超えてまで楽しむというのはひとつの方法であり、良いことだと思います。謎解き自体も的外れではないのでしょう。

謎解きという表現が正しいかどうかですね。考察って言ったほうが正しいんでしょうか。自分で書いててなんですが、考察の方がぴったりですね。謎解きというと、問題が明確に提示されている感がありますが、考察のほうは暗に謎がほのめかされており、その違和感に気づかないと思考が進められませんもんね。「忌録」は読者に問題を提示はしていません。ただ、違和感センサーをビンビンに刺激するのでしょう。それらを解消させるために、考察に取り組む人たちがいるのでしょうね。

 

お盆です。ホラー小説の季節なので、もう一冊くらい読みたいです。

 

 

 

 

 

 

2018年から2019年現在の心の平穏が続いているので、ブログの頻度が落ちたについて

ゴジラ観ました。先週ですけど。面白かったです。やっぱりお金をたくさん使った映画で大迫力の怪獣映画を観ると感動しますね。パシフィックリムに通じるものがあります。僕は特別ゴジラファンではないので、そこら辺の文脈は理解せいてませんでしたが、それでも余るほど面白かったです。兄は理解して多様で底も楽しめていたようです。

 

最近心が平穏です。浮き沈みはあるものの、沈んだ時の底が浅く、すぐに浮上します。家族のことである程度吹っ切れたところが大きいのでしょう。去年の冬に再び母親が自殺を図ったのですが、特に思うところもなく心を通り過ぎていきました。これがずっと僕が目指していた到達点のひとつです。やったね。

外部に影響を受け心がいちいち揺さぶられていたら身が持たないので、頑張って練習しました。おかげで仕事上でもそんなに動揺することもなくなりました。問題処理に即取り掛かることができるので、役立ち率が高くなりました。やったね。

これが2018年から続いています。

 

半面、ということでしょうか。このブログも心の整理のために書いていたようなものなので、心が揺さぶられ動揺していた時に書いていたので、書く頻度がぐんと落ちましたね。パソコン新調して、Amazonタブレット買ったのにここに書きませんでした。ペンタブも買ったんですよ。日が開くこともありますけど、結構な頻度で絵を描いてます。今までなら使い心地とか心境なんか書いてたんですけどね。どうしたことやら、キーボードの上に指が乗らない。乗せる必要がないが適当かな?

心の整理をするまでもない日々が続くことはいいことです。

方向転換を図ろうかとも思っています。単純な外部記憶として・自分の思いを少し距離を置いて眺めるためとか。感想文とメモとこのブログのタイトルには書いてますが、ほぼ日記ですからね。日記は日記として、特に心が揺さぶられるような特異なことではなく、変わらない日々でも書くのもいいですね。今まで映画がほとんどでしたが。

 

この映画の感想も割と、心理的に落ちてた時に書いてたんですよね。思えば。なぜだ。これからはただただ、書くことを目的としてもよいかもしれません。

どうなるかは気分次第です。

 

 

 

「何者にもなれない・自分が本当にやりたいことを仕事に・自分探し」について

 表題について僕はたまに考えています。3つありますね。この3つは別々の問題でしょう。分けるのがめんどくさいので、いっぺんにいきます。

 多くの人が、この話題に一度でも向き合ったことがあると思います。どんな姿勢で臨むのかは別として。この話題が目の前に提示されたとき、まじめに考えたか、斜に構えるか、困惑するかは個人個人で異なるでしょう。僕は斜に構えました。何者かになる必要はないからと思っていたからでした。やりたいこと=仕事ではなかったから。やりたいことは仕事ではなく、他の場面で叶えればよいと思っていたから。仕事では叶えられないこともあるから。やりたくない仕事でも、楽しいことに変化する可能性があるから。自分探しの自分とは何か、探すとはどういった行為なのか不明瞭で、考える必要もないことだと思っていました。また、自分は自分であるという感覚が強く、不安がなかったからです。

 こう考えていたのは大学生の頃です。現在も自分事としてとらえるなら、考え方はあまり変わりません。他の人から相談された場合は、相手に合わせて答えを変えます。

 

 Twitterでちらりとこの話題を見たときに、そういえば言葉や文章にしたことはなかったなと思い、書きます。完全に僕のイメージで。

 なんでこれを問題にするの?どうやったら解決できるの?誰が問題にしてるの?というのを僕のイメージで語ります。

 「何者にもなれない」という悩みはどういうことなんでしょう。「何者にもなれなかった」というのは後悔ですよね。未来に向けて「何者かになる」チャンスはもうない、残っていないという言葉のイメージです。人生で不幸があり、何かを諦めざるを得なかった場合もあります。中年が言ってそうですね。自分の個性が周りに埋もれ、自己を発揮できないというのは若者が言ってそうです。埋没しない個性を見つけたい、これが自分探しにつながりそうですね。

 若者の場合は就活の時、中年の場合は仕事が落ち着いてきて、子供も独り立ちして自分のリソースが余ってきた時、それぞれの時期に表れる問題でしょう。若者と中年の定義も、これ以外の時期にも立ち現れる問題だろうというのは置いといて。

 両者とも現状に不満を持っているんでしょう。そしてこれまでの行いの後悔ですね。じゃあ今から特別な存在になろうとがんばろうとするか、諦めるか。容姿等、生まれ持ったものでは既定されず、努力すれば特別な存在に変わるというニュアンスが感じ取れます。

 「何者」とは何でしょうか。モデルがあるのでしょうか。どうすればなれるのか、明確に方法がわかっているのでしょうか。そういった存在になった場合、なったということがどうやってわかるのでしょうか。なれたら、現在抱えている不満や不安が解消されると思っているのでしょうか。

 なぜ何者かになろうとするのでしょうか。周りと比べたらそういう人が多くて、自分は遅れているとなんとなく実感しているか。テレビなどの媒体で植え付けられるか。実際のモデルがおり、憧れているか。他人から指摘されたか。

 現状の不満や不安が何者になることで解消されるならば、なればいいでしょう。ですが、どうやったらなれるかやゴールはどこかが不明瞭なので、呆然としてしまうのでしょう。向上する方向なので、基本的には良い考えだと思っています。ですが評価の方法が不明なら、どんなにがんばっても不満は残りますし、がんばったらがんばっただけ疲れますね。現在の状況をまず認め、不満の解消方法を正しく決め、解決に向かうのがいいんでしょうね。過去の経験を振り返り、どんな人間だったか、どんな時幸福感が得られるか、どんな環境が心地よいか。これから始めて、それを育むのが着実だと感じています。

 周りから実際に強く求められる時はどうしようもないですね。就活の場面とか。「この仕事は本当にやりたいことですか?」「あなたは特別な人間ですか?」と聞かれたときに、自分の心の暗いとこに自意識が沈んでいく感じがします。どうしようもないですから。やりたいことは仕事ではありませんし、やりたいことが仕事では叶えられませんという場合、どうしようもないです。私は特別な人間ですが、そう言ってもあなたは認めてくれないでしょう、という場合もあります。

 私生活と仕事に折り合いがつけられる職を探すか、どんな場所でも見失わない自分を持つしかないんでしょうね。

 職や現状に適応できなかったら、そんな自分も認め、よりよい環境に移るような。自分の認識自体を変えるか。そんなときに自分を否定しなくてもいい意識を持つことも。他人の評価ではなく、自分が自分を評価してくれるような軸を持つような。個人的にこういう意識で生きています。苦しむのは嫌ですから。多くの人が苦しんでいることをあらかじめ学んでおき、今から対策を練ってます。今回のテーマについては、なかなか上出来です。

 

 

 はたから見たら、だいぶ啓発的な文章ですね。ある意味一般論どまりですし。でも、現在の僕にとって、とても大切なことです。

 

 

 

 

 

日記「苦しみと楽しみ」について

 引き続き日記を書くことにします。日記は毎日書くものであるなら、これは日記ではないですね。雑記とかでしょうか。日々を区切るのではなく何日かをまとめ、その間に経験したことを、自分の中で練り直す作業です。

 本ですよね。僕にとって苦しみと楽しみ(歓び)に直結します。最近は本を読んでます。なぜでしょうか。他人のことは把握できないですが、僕は精神のよりどころがあまりないのです。家族は論外として、会社でもそのような人間関係は形成していません。友人とも数か月に一回会うかどうか。携帯端末での各種連絡もあまりとりません。他の人は、精神が弱くなった時に、どこにたよるのでしょうか。家族が想像しやすいですね。次に友人。次に会社の同僚とかでしょうか?趣味で気を紛らわす?人間関係が貧弱なので、想像でしかありません。つまり、弱音をどこで吐くということです。とは言っても僕もSNSでたまにやりますね。最近はそうでもないですけど。ホントか?

 で、個人的に精神が弱くなった時は自分の心の中で解決したいと思ったんですよ。思ったんですよっていうのももう数年前のことで、継続して試みてましたが。で、どうやったらそうなれるかなと考え、本を読むことにしました。最近はこのおかげか、以前では挫けそうになったことも、容易く心の中でいなすことができるようになりました(経験を積んだから、その分慣れているだけでは?)。本を読んで、物事をいろいろ相対的にみたいのです(見れていると思い込んで、実際は誤った結論で満足しているのでは?)。気のせいでいいのです。僕自身の心の平穏が保たれるなら(精神のよりどころが本になっているだけでは?)(つまり、嫌なことがあったら、読書をして発散させているだけなのでは?)。

 最終目標は弱音を他人に吐かないことです。すべて自分の心で解決したいのです(他人に面倒をかけたくないという、それこそ弱い心の発現では?)。盲目的かもしれませんが、自分の心で気持ちよくなりたいのです。

 他の目的もあり、本を読まねばなりません。これは、目的に進んでいるという実感が得られるので、楽しいことです。焦りもありますが。総合的には楽しい日々を送っています。

 

 

 

映画「来る」について

何してたの?と聞かれたらどうでしょう。いろいろしてましたが、この前の休日何してた?って聞かれたときにどう答えましょう。いろいろしてましたよ~じゃ、意味ない会話ですね。いろいろが聞きたいんでしょうけど、どう言葉にしてよいやら。意味ある会話が欲しいなら、本読んでましたよとしか言いようがないですけど。最近は休みの日は本読んでる時間が大半を占めるので、よい答えでしょう。でも、本読んでる人が意外と少ないので、僕の周辺では。よって、あまり会話にならないということになり、相手が求めている意味のある会話が成り立たないという事態になります。僕は意味のない会話も好きなので、満足します。僕にとって意味があるので。

 

映画「来る」を観ました。面白かったです。原作は未読です。ツイッターで評判がよく、観ようと思いました。原作は「ぼぎわんが、来る」で、怪異にはぼぎわんという名前がありますが、映画ではこの名前は強調されません。お化けの呼び名である、がんごなどと並べられている感じです。

3部構成になっているのでしょうか。1部はカップルが結婚し、子供ができてその夫が死ぬまで。2部はシングルマザーとなった妻が死ぬまで。3部は霊能者と怪異の戦いです。

1部、2部は胃が痛くなるような人間描写で、これが最後まで続いたら自分の精神が耐えられなくなるくらいきつかったです。怪異の怖さよりも、1部では夫への胸糞悪さ、2部では妻への同情と胸糞悪さが先立ちます。もちろん、恐怖描写も秀逸ですよ。で、最高なのが3部。1部ですでに夫が怪異に立ち向かうため、霊能者を頼ってるのですが、霊能者たちのキャラが濃ゆい。ツイッターでもこの霊能者たちに惹かれている人たちが大半でした。あと、1部、2部の精密すぎる胸糞描写の評判が良かったと思われます。

見どころは3部の、怪異との全面対決でしょうね。神仏、修験、道教民間信仰柴田理恵は東北のカミサマなどがベースなのでしょうね。弓たたいてましたし。サイケデリックに宗教儀式を混合したOPもそうですけど、どうしてここまで祈祷や儀式をかっこよく描けるのでしょうか。1部、2部で胸の奥で停滞していた胸糞が3部でようやく解放されるようでした。気持ちがよくて涙が出るほどです。EDのカーン!!もいい。気持ちよくなりたいなら「来る」はおすすめです。

 

「夏も過ぎましたね」について

別に表題について、夏が過ぎたと言っても今年は特に感慨はありません。今年の夏は、季節を感じる瞬間は、暑いということだけで、きれいな風景を見たとか他とかはありません。夏とは別のもう一つの季節が今年だけ差し込まれ、それが過ぎたのではないかと思い込んでいます。庭のアジサイが枯れました。雨が降るごと涼しくなり、爽快感ある時季です。山にでも登ろうかな。

 

netflixに登録して、それをひたすら観る生活を送っていました。7月後半に放送大学の一学期単位認定試験が終了し、お盆になると暇になりました。クレジットカードも作ったので、良い機会だと思い登録した次第です。いいですね。netflixは。ワンクリックで再生出来て、途中で閉じて再開しても観ていたとこから開始してくれるので、ストレスないです。ストレスがなさ過ぎてどんどん観ちゃう。なのでお盆は一歩も外に出ず、映画を観てました。不健康ですね。

ちなみに放送大学、1学期は11単位取得しました。1単位は面接授業です。面接授業では僕1人しか男はおらず、20代とみられる女性は1人。あとは主婦とリタイア層でした。受けてた授業内容の問題でしょうが、そもそも放送大学ってどんな人が在学してるんでしょうね。若い人少ないんでしょうか。わからんちんですね。障がい者教育や発達心理学に興味があるので、それ中心でとろうと思います。そもそも土日に試験がある科目しかとらないという前提もありますが。

車を購入しました。新しいNboxです。以前は13年前の初期型のバモスでした。しかもマニュアル車。全く違う乗り物かってくらい快適です。カーナビ付きました。これはスピーカーの出力のためという問題で、車を購入して1か月半、いまだに使ってません。SUVはたぶんいざというときに発揮されるのでしょう。危険な運転をしない限り、また運悪く危険な場面に遭遇しない限り、そもそも発動しないのでしょうね。ただエアコンが効き、バックモニターが搭載され、オートマというところが素晴らしく良いです。すこし贅沢すぎる買い物だったかもしれませんね。

放送大学netflix、新車と環境が変わっています。大変気持ちのいい環境になりました。良いですね。