映画「この世界の片隅に」について

観ました「この世界の片隅に」。面白かったです。

正月前後は人が多いかなと思い、小正月も過ぎた今なら人も少ないだろうと映画館に行きました。早朝ということもあって人も少なく、ゆっくり鑑賞できました。

 

映画の内容は、戦争の日常を描いた作品でした。広島の呉に嫁いだすずという女性が主人公ですね。軍港があるので、空襲をはさみながらも、それでも日常は続いていくんだなあ、という感じです。衣食住性みたいな。

 

僕はどうしようもないことや、やりきれないこと、理不尽なことを人が如何に割り切っていくかという話が好きで溜らないんです。なので、OPで流れた「悲しくてやりきれない」を聴いた時、一番泣きそうになりました。

 

戦争は起こってしまったらどうしようもないですね。どうしても身近な人が亡くなります。すずの兄が戦死し、届けられた骨壺の中には遺骨の代わりに石ころが入っていました。母はそれを割とぞんざいに肩に担いでいました。こんな石ころをよこしやがってという怒りではなく、雑なポーズをわざととることにより、自分の中で「戦争で死ぬとはこんなものであると」割り切ろうとしたのでしょうか。

時限式爆弾ですずの義姉の娘が死んだとき、義姉はすずに対して「人殺し」とののしりました。夫も亡くして娘までも死んでしまったので、理不尽な怒りだとしても当然ですね。ですが、終盤はすずに対してモンペを直したりしています。どうにか割り切ったのでしょうか。

すずは義姉の娘が死んだときに、一緒に行動しており、爆弾で右腕を無くします。すずは絵を描くことが好きでしたが、もう描けなくなりました。すずは自分のせいで義姉の娘が死んだと責任感を感じていることもあり、涙を流します。一度実家に帰ろうともしますが、結局やめます。どうにか割り切ったのでしょう。

一番印象に残っているのは、近所に住む女性についてです。息子が徴兵され、息子は広島市に行っていました。原発が落ち、息子はその被害を受け、顔がドロドロになりながらも歩いて呉に戻ります。ですが家の横で力尽き、壁によりかかりながら死にます。その女性は最初自分の息子だと気づきませんでした。のちに自分の息子だとわかり、すずに対して、ボヤくようにこのことを話します。特に感情的なことは言わず、事実のみをすずにボヤく感じです。この女性は一人で泣いたのでしょうか。如何に、すずに対して話せるまでに割り切ったのでしょうか。

 

たくさんの理不尽が起こりますが、日常生活は続けないといけません。登場人物たちは、割り切れてたのでしょうか。それとも、割り切ったようなふりをしているだけでしょうか。妥協点を見つけられたのでしょうか。やはり、どこかで割り切らないと、生きてはいけないのでしょうか。

 

死は非日常なのでしょうか。どうでしょう。死は日常です。ただ死んだ人との距離感によって受け止め方の程度に差があるだけです。どうでしょう。普通に生活していても、割と簡単に周りの人が死んでいきます。戦争中かそうではないかという差だけです。どうでしょう。

戦争によって死んだというのはどんな意味があるのでしょう。理不尽に命が奪われたかどうかでしょうか。身近な人が戦争中に死ぬか、普通の生活を送り病気で死ぬか、想像しましょう。どう違うのでしょうか。理不尽かどうかはどう判断するのでしょう。どっちも理不尽ですね。

ただ、個人的に思うのは、戦争は理不尽なことが頻繁にたくさん起こるのだということです。呉の町の人全員が、理不尽な思いを抱えながら、日常を送っていました。寂寞感のある明るさは好きです。むしろさわやかさを感じます。僕はこの作品が大変好きです。